創造すること

  • On 2018-03-02 ·

今日はグラントと、遊びに行く!

忙しい仕事の日々の中に、貴重な1日を空けてくれてとっても感謝。グラントにはもうすぐ2人目の女の子が生まれるので、一緒に出かけられるのは今日が最初で最後になりそう。もし私の滞在中に生まれてきてくれたら、絶対に赤ちゃんに会いに行きたい。

車の中でグラントと話したことがある。それは、初日に話した「コミュニティ・オーガナイザーって何?」という質問の続きだった。彼が車を停めていたのは、ダイマルホテルのすぐ裏手にあるロサンゼル市立の大きな立体駐車場だ。グラントは、「かつてはそこにもたくさんの人々が生活を営んでいた」と言った。私が「つまり、ロサンゼルス市がこの一角を一掃したということ?」と訊くと、「悲しいけどつまりそうだ」と返ってきた。「なんのために?交通渋滞緩和のため?」と聞いてみたら、彼は道路脇に車を停めて、私たちは少し話した。

リトル・トーキョーの周辺を散歩するときに私がいつも目印にしているランドマークはロサンゼルス市庁舎なのだけれど、このあたりのけっこう大きな土地に、市の機能が集約されている。これらは戦後、日本人が解放されてキャンプから返ってくるときと同時に市が建設を始めたもので、要するに日本人が帰ってくる場所を圧迫するように市が占拠したということになる。だから今日のリトルトーキョーはこんなに小さいのだ。

ここの日系アメリカ人のコミュニティには何度も津波が来た。第1の波は、真珠湾攻撃のあとに迫害を受けて強制収容キャンプに送られたこと。第2の波は、戦争が終わってキャンプから帰ると新しい市の計画によって居場所を失い、離散せざるを得なくなったこと。第3の波はディベロップメント(開発)だ。裕福なディベロッパーたちが土地を買い、新しい建物を建て、家賃や物価が高騰し、貧しい人が住めなくなった。ディベロップメントは、寄せては返す波のように、何度も繰り返しやってくる。今、リトルトーキョーのコミュニティが直面しているのはそういう現実だ。

グラントによると、かつての日本人には過酷な時代を耐え忍ぶための2つの言葉があった。それは2世の人々から語り継がれたためにここではよく知られた日本語で、「我慢」と「仕方がない」だった。しかし今、コミュニティが必要としている解決策は、新しい行動だと彼は考えている。それは、耐えるのでも諦めるのでも、闘うのでもない。私は「抵抗?」と訊いた。彼は「創造」と答えた。だから彼らは、人々が集まれる場所を創り、手頃な家賃で安心して暮らせる住宅を創り、社会福祉の仕組みを創り、複雑な歴史を刻んだこの街に文化の拠点を創る。「創造」によってコミュニティを守り、育むことこそが、彼らコミュニティ・オーガナイザーたちの仕事だ。そして、アートもその創造的な計画の一部としてある。

私はどこかロサンゼルスが一望できる高いところへ行きたかった。彼の20年来の友人のローレンも合流した。今日のドライブは話が尽きず、本当に楽しかった。私たちは互いに外国人で、兄弟みたいな顔をしている。

ここから眺める景色の半分はクリアーで、半分はよく見えない。半透明の向こう側に私の暮らす街を透かすと、みんなが見ているステレオタイプの日本がなんとなく揺らいで見える。そして、あちらの側の街からはここは全く見えない。「チーム」を創ってみたいと思った。私たちは一緒にリトルトーキョーを探検し、コミュニティの膨大なリアルのすぐ脇に、細いフィクションの道を開拓する。きっと面白い。ここのコミュニティの過去は、パイオニアが上陸した100年と少し前から突然始まった。せっかく情熱をかけて歴史を保存しようとするなら、日本の江戸時代、いや奈良時代、それとも弥生時代にまで通じる秘密のトンネルも創っておいたほうがいいんじゃないか。未来は人々の創造力によって無限に続いていく。多くの人々に出会えたリトルトーキョーで、近い将来、日本と日系コミュニティーによる国際共同創作を行うことが私の新しい目標になった。