デイ・オブ・リメンバランス(ユキオ・カワラタニさんのこと)

  • On 2018-02-25 ·

日系コミュニティの大切な側面に触れる話を、どうやって書き出そうか悩んでいたけれども、とうとう書いてみることにした。

2月17日、私はディーンに招待されて、「2018 デイ・オブ・リメンバランス」というイベントに参加した。副題は、「1988年の市民自由運動 勝利と未完成の仕事」。それはつまり、アメリカ政府が戦時下の不当な日本人収容の事実について公式に認め、賠償金とともに謝罪してから30周年を記念した式典とレセプションだった。和太鼓の演奏から始まり、いろいろな人権活動家や、有形無形の歴史的資料の保存に尽力する人々、また当時の歴史に関わる親族などが大勢集っていた。たくさんの人に挨拶して私を紹介してくれたあと、ディーンは私の隣に座って説明してくれた。「日本と韓国とのあいだにある慰安婦問題について、韓国人や韓国系のアメリカ人の中では、日本政府がいまだにはっきりと謝罪の態度を取らずにいると思っている人が多い。一方で、慰謝料や米国政府からの謝罪を含む賠償は、日系アメリカ人にとって「勝利」と見なされていた」と言った。

スピーチの中で、「日系2世の人々がGAMAN(我慢)してきたことを、新しい世代は乗り越えて、権利のために声をあげ団結していかなければならない」という力強い呼びかけがあり、人々はそれに拍手と歓声で応えた。それから、YMCAの青少年たちが旗を持って入ってきた。その旗には、アメリカ全土にかつて存在したキャンプの名前が刻まれていた。司会の人が一つ一つのキャンプ名を読み上げるたびに、人々が順に立ち上がった。自分や両親や祖父母がそこにいたことを示すために。私の隣に座っていたディーンも立った。ほとんどの人が立ち上がっても、私は立たなかった。私の家族にはキャンプの歴史がないことを改めて感じた。

そのとき知り合ったたくさんの人々の中の一人が、ディーンの義理の父であるユキオさんだった。

後日カフェで会いましょうと約束して、彼はその日のうちに私にメールを送ってくださった。それは、彼が12歳から14歳の頃に、Tule Lakeという強制収容キャンプで経験した諸々のことを、新聞に寄稿した記事だった。例えば、日本人はアメリカ軍から配布されたアンケートに回答しなければならなかったこと。そこには、質問27「あなたはどんな場合においても戦闘義務によって軍に奉仕するつもりか」また、質問28「アメリカへの無条件の忠誠を誓うか。それとも、日本の天皇や他の外国政府、権力、組織に対する忠誠心や服従を誓うか」といった内容が記されており、それらの質問にイエスと答えるか、ノーと答えるかによって人々はふるいにかけられたことが書かれていた。そのとき身を守るために「イエス、イエス」と答えた9割の大人たち。「このようなアンケートに答えなければならないのはおかしい」と抵抗して答えなかった一部の人たち。そして、ユキオさんの家族のように「ノー」と答えた人たちもいた。一家は刑務所のようなところに送還され、子供達はアメリカ市民であるにも関わらず、敵のような扱いを受けたとも書かれていた。まだ戦争が続いていた1945年、アメリカ政府は全ての収容所を閉鎖すると発表した。そして多くの日本人たちは、どこに行くことになるのか、生きていく場所や仕事はあるのか、そして白人社会の中でどんな迫害を受けることになるのか、怖れていた。

戦後、アメリカ政府は日本人たちの日本への送還を強制しなかった。どうしても行きたい人だけが日本行きの船に乗った。ユキオさんのお父さんはアメリカのやり方に怒っていたので、2人のお兄さんたちを連れて船に乗った。それから、お父さんは悲しいことに、貧しさの中で早くに亡くなったそうだ。ユキオさんが生き延びられたのは、アメリカ軍から帰ってきた別の2人の兄たちが、「下の子たちを飢えさせないために日本には行くな」と母親を説得してくれたからだったという。

今でも、彼がTule Lake のキャンプ出身だとわかると、人々が反応することがあるのだという。あのアンケートで「ノー、ノー」と答えた人たちが送られたところだと思われるからだそうだ。こうして時代に翻弄され、いろいろな選択をしてばらばらな運命を辿った人たちの、そのまた子供や孫たちが、「日本」という共通のルーツを拠り所として再びコミュニティを成すのだから、それは日本でいうところの「地域コミュニティ」と性質が違うのは言うまでもない。

ところで、ユキオさんは御歳87歳。ダウンタウン・ロサンゼルスの都市計画を担った人だ。最近作ったという手作りのリトルトーキョーの地図を私に見せてくれて、それにコピーライトをつけて新聞社やいろいろな広告に売り込むつもりだと言っていた。「今はみんなスマートフォンだから地図なんて使わないよな」と言いながらも、日々更新されていくこの町を人々の見える形にすることで、リトルトーキョーについての見識を広め、コミュニティー支援につなげていきたいと考えているようだった。地図の裏面には、彼もメンバーであるリトルトーキョー歴史学会のための資料を印刷したいそうだ。そして、他のリトルトーキョーの組織や企業も、それぞれの情報を裏面に使って地図を使うことができまる。 目標は、すべての人々がリトルトーキョーを訪れて楽しむことを奨励すること。さすがプランナーのアイディアは2Dでも立体的だった。そんなユキオさんは詩を書く人でもある。私にコピーをくださった『Short Love』というバレンタインに寄せた一編の詩は、小さな男性が、背の高い女性たちの中で恋人を探すのに苦労して、ついに同じ身長の女性を見つけたという詩だった。

私はユキオさんに、「あなたのようにキャンプを経験した人がここにはたくさんいらっしゃるんですか」と尋ねると、「もう亡くなってしまったから、ほとんど残っていないよ」と言っていた。