メイ・ハヤシさんのこと

  • On 2018-02-09 ·

ボランティアで出会って、少し英語混じりの日本語で話しかけてくれたその人の名前はメイさんという。子供が3人、孫が4人。アメリカに来たのは、親がすすめる結婚がどうしても嫌で、大好きだった片思いの人を追いかけて。

昭和16年11月28日、戦争が始まる10日前にメイさんはサイパンで生まれた。そのころサイパンには日本人が働くお砂糖の産業があって、サトウキビ畑と、収穫して製糖する工場があったんだそうだ。そこで、お父さんは日本人向けの呉服問屋を経営していた。華僑だった。だからその頃から、国を渡ることは全然問題ではなかった。

戦争が始まって、家族は山梨に疎開した。メイさんが7人兄弟の3番目だから、下にはもっと小さな赤ちゃんもいて。その時の記憶は全くない。戦後になって、父は横浜のチャイナタウンに「陽華楼」という、1000人の宴会場を持つ6階建ての大きな中華料理店を興した。メイさんはそこのお嬢さんとして幼少期を過ごした。

アメリカに渡ってグリーンカードが手に入るまでは、しばらくのあいだ学生をしながらウエイトレスとして働いた。ちょうど車はビバリーヒルズのあたりを通る。ヤシの木の生えた、巨大な銀座か表参道。

宝石屋さんや、会員制のゴルフクラブがあるエリアを抜けると高級なレストランが並んでいる通りがあって、左手にBenihanaという有名な日本料理屋さんがある。若き日のメイさんは、そこで着物姿で働いた。飲食業のことをよくわかっていたからとても重宝されたんだそうだ。店に高倉健や坂本九がご飯を食べに来た時のことは今でもよく覚えている。でも、最近のことはすぐ忘れてしまう。自分が今やったこと、ついさっき聞いた話。特に、人の名前を覚えられないのでよく悲しくなる。でも、娘さんが教えてくれた。「エレベーターで誰かと一緒になったら、 “How are you? Buy the way, what was your name?” と言いなさい」と。そうしたら相手は、「この人は忘れるんだな」と気づいてくれる。それからは、忘れたとしても悲しくなくなった。

ご主人は、追いかけてきた片思いの恋人ではなかった。日本政府の要人のパーティーがあった時にウエイトレスとして呼ばれていったメイさんは、そこで領事館の板前をしていた日本人の彼と出会って、のちに結婚した。先ほどトシコ・ムトーさんを送っていった病院で、子供を3人産んだ。最初の子はなかなか生まれなくて、10時間も病院の周りをお散歩する羽目になった。ご主人はすでに亡くなり、今は住んでいた家を子供達に譲って高齢者住宅の「東京タワー」に入っている。そういえばさっき、エレベーターで一緒になった住人との世間話でメイさんは言った。「引っ越したばかりで、ずっと誰かと暮らしていたから寂しいのよ。捨てられたみたいで」そうしたらもう一人は、「みんなそうなのよ。でも慣れたら軽くなるわよ」と言った。

車はビーチに向かって進んでいるけれど、まだまだまっすぐの道はずっと続いている。そしてどこまで行っても、メイさんは、あそこの店がおいしいとか、ここは芸能人がよく来るサロンだとか、そこはセクシーな下着屋さんよとか、細かいことを説明してくれる。ずいぶん詳しい範囲が広いので、どうしてそんなによくご存知なんですかと聞くと、彼女は引退するまで、「パシフィック・ジャパンなんとかドライビング・スクール」という自動車教習所を経営しながらそこで教えていた先生だった。「パシフィック」は彼女がサイパンで生まれたから。「ジャパン」は日本人のお客様を引き込みたかったから。「教習のコースを持っていたんですか?」と聞くと、ここではコースなんてないんだそう。教習車でお客さんの家まで迎えに行って、家の近所から練習を始め、試験に合格するまで付き合うというやり方。だから車一台あれば開業できる。言われてみれば私の助手席の足元にはブレーキが付いているし、こちら側にバックミラーもある。この車、教習車だったんだ…!

今朝、一緒にボランティアしているおじいさんたちが、「アメリカン・ドリームはあるんだよ」と言っていた。農家の次男だから貧しくて来たという人もいれば、大企業で任期付きの仕事で来て、こちらの方が割りがいいのでグリーンカードを取り付けて日本の会社をクビになった人もいた。遊びに来たままずっと居着いてしまったという人も。みんな苦労をしながらも、どこかで甘い蜜も吸ったことがあるような口ぶりだった。私もここに住みたいなら、資格があると収入は1桁変わるよ、と教えてもらった。看護師がいい!それも、アメリカの学校は高いので、フィリピンあたりで資格を取って、こっちに来てから切り替えるのが賢いやり方。彼らによると。ただし、結局アートでなかなか食べられない、というのはここでも同じだった。別に驚くべきことではないけれど、アメリカでもそううまくいくとは限らないみたいだ。良いアーティストの作品をもっと見に行きたくなった。

日が沈み始めてもビーチにはまだまだ着かないので、ついに私は、「メイさん、もう帰りたくなっちゃった」と言った。メイさんは、「どうせ長い砂浜がずっとあるだけだから、ビーチなんて行ってもつまらないよ」と言って、Uターンした。ああ、もっと早く切り出せばよかったか。ビーチには今度電車で来よう。

帰りは渋滞。

ここから2時間、メイさんが習っている阿波踊りの話なんかをしながら楽しく帰った。
メイさんは中国のルーツを持っているけれど、日系のコミュニティにずっと入りたかった。だからこそ高齢者のボランティアを8年もして、三味線や、ウクレレや、踊りを習った。それは亡きご主人が日本人だったことや、育った横浜の記憶が大きく関係しているんだろう。メイさんは4年待って、ラッキーにも空きが出たので入居できた。多分、前に住んでいた方がお亡くなりになったんだろうと。日系の「東京タワー」の入居者の7割は、日系ではないとも聞いた。日本人は世間体を気にして、家族が面倒を見ないと思われるから入りたがらないとメイさんは言う。本当かどうかわからない。「でも私は韓国人にまだお会いしていないと思うけど」と言ったら、メイさんは「いるわよいっぱい。一番多いよ。日本語を話しているから見分けがつかないだけ。日本が占領していた頃の昔の人は、日本語の教育を受けているからみんな日本語ペラペラよ」と教えてくれた。

やっと近所まで帰ってきた。9th St. から 4th St. あたりまで続く問屋街に、日が暮れてとてもたくさんのホームレスの人々が身を寄せ合っていた。3rd St. より向こうは危ないから行っちゃいけないと初日にグラントから聞かされていたので、今日までこの辺を歩いたことはなかった。あまり見ると失礼なので車の中で目を伏せて通ったけれど、彼らはみんな黒人だった。私がこのことをあえて書いておくのは決して他の意味ではなく、ただ、アメリカの壁を感じるからだ。