フェミニズムのこと

  • On 2018-02-25 ·

とても唐突だけれど、私は女に生まれて、自分のことを女性だと思っている。

ロサンゼルスに来て、女同士の普通の会話の中にフェミニズムの話題はよく出る。「フェミニスト・マーチに行かないか」と誘われたり、誰かが幼い女の子に「あなたたちの未来は明るい」と言っているのを耳にしたり、洋服屋さんには “Feminist” というロゴの入ったかわいいTシャツやキャップが売っていたりして、いつでもフェミニストになれる環境は整えられている。たしかにそのことがちょっとくらいは気になっていたけれども、私自身が何か行動に起こすほどの情熱はまだ見出せなかった。

私は女として、たぶんこれまで守られすぎていて、理不尽を感じる機会が少ないまま生きてきたので、特に女性の権利をもっと拡大したいと思ったことがそれほどない。あるいは、母も祖母も曽祖母も外で働きながら子どもたちを育ててきた家系だったので、少しくらいの理不尽には鈍感なのかもしれない。もちろん仕事をしていれば「男手」になれないことを悔しく思う場面はあるけれど、実はそれはあまり決定的な問題ではないと思っている。また、セクシャル・ハラスメントがあらゆる場面で起こり得ることは、最近特に明るみに出てきた通り、全面的に賛成できるが、一方で私個人としては女性よりもむしろ男性とのほうが協働関係を築きやすいと感じることが多い。それはたぶん、生物として弱い部分を補い合うことができるからじゃないかなと思う。私の周りのゲイやレズビアンの友人たちも大好きだ。彼らは私からは見えていない別の視野を世界に対して持っていて、愛があって、楽しくて、信頼できる。彼らの美しい感性は絶対に守られるべきものだと思うけれども、フェミニズムと一括りにして団結しようとすることにはまだ疑問が残る。とにかく、私は社会人になってから、いろいろな現場でたくさんの人にお世話になって、「不当に扱われている」というより「大事にされてきた」という感覚の方が強い。そのように思える理由のどれもが、すでに多くの先輩女性たちが、ずっと昔からそんな社会になるように願って戦ってきたからに違いなく、私はただその恩恵にあずかって、なんだかけっこうラッキーにやってきてしまったのかもしれない。

いろいろな意味で、このポジティブな社会運動に興味はありつつ、積極的に乗り切れない私だったが、今回のKASHIMAの滞在コーディネーターの一人であるNPO法人インビジブルの菊池宏子さんに紹介していただき、あるシンポジウムに参加してみることにした。それは「フェミニスト・カルチャーはどのように未来を担うのか」というテーマの、8人ほどの登壇者によるプログラムだった。女性だけでなくLGBTQも含めて扱われていたが、大学の一室にぱらぱらと集まった聴衆のほとんどは関係者のような感じに見え、そして全員が女性だった。さまざまなアーティストのアプローチが写真や動画を交えて紹介されたのが、とても面白い。特に、フェミニズムの問題も人種によってその様相がかなり違うのは興味深かった。

アートに関して言えば、マーケットの開拓は見えやすい問題だ。一人のパネリストの主張によると、「大きな美術館のコレクションのほとんどが男性作家の手がけた作品で、女性には圧倒的にチャンスがない。ここにいる何人の人が、作品を売って有名になりたいですか?みんながそう願っているはずなのに、女性の入り込めるマーケットが存在しないことはおかしいじゃないですか」と。彼女の主張は一見とっても正しそうなんだけれども、資本主義に依り過ぎていて、私自身にとっての女性性の楽しみ方と一致しないということがわかってきた。私の考えでは、女性にはあまり知られていない特権がある。それは有名な大きな道路のすぐ脇にある細い小道を歩いていける権利だ。私は、この権利を行使しているからこそ、今のような即興のリサーチや、思いもよらない人との関係づくりができる。売れることは売れないよりもずっと良い。でも、有名になることと引き換えにこの小道が見えなくなって、ここで力を発揮できなくなるとしたら悲しいし、困ってしまう。

私はただ単に大きな括りでフェミニズムを批判できるわけではない。なぜなら、世界中には男と女が必ずいるので、それぞれの時と場合においてあらゆる文脈を考えなければいけないからだ。本当に生命を脅かされる危険や人としての尊厳を傷つけられてしまうケースを一刻も早く解決に向かわせるためには、「一般的に女性は損をしている」と捉える大声の主張に惑わされずに、特定の社会で実際に女性が被っている不利益をできるだけ具体的に知った上で、個別的に対処していかなければいけないと思い知った。もし声を上げるとしてもそれからだ。

それと、もうひとつの心配は、フェミニズムが包含しようとする領域、つまり地球上の女性とLGBTQの人数を乱暴に全部足したら、残る男性こそがマイノリティになる。例えば、人口の移動によってある土地に一定数以上の人が住めなくなって誰かがその場所を離れざるを得ないように、また災害や地球環境の変化によってこれまでいた場所にいられなくなることがあるように、市場経済の中で居場所を追われて漂流する男性は次にどこに向かうのか。それは潜伏する女性よりもなにか深刻な存在なんじゃないかと思えてくる。うまく説明できないけれど、これは感覚的な不安だ。

女性の権利を声高に叫び踊るフェミニストたちが、もしもリトルトーキョーの高齢者住宅を訪れればすぐわかることだろうけれど、女性ってみんな長生きだ。ご主人や息子さんを亡くされてもまだまだお元気な女性たちにたくさんお会いした。損得では比較できない尊さがある。私もそろそろ新しく、もっと楽しいコラボレーションの形を思いつかないといけない。